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物語


1944年11月、南太平洋パラオ諸島に浮かぶ美しき小さな島、ペリリューの壮絶な戦いで 全軍を指揮した中川州男大佐の最後の時を、愛妻に宛てた手紙とともに描く~

太平洋戦争末期、日本軍と米国軍による凄まじい戦いの舞台となったペリリュー島。第一次世界大戦まではドイツの植民地であり、ヴェルサイユ条約により日本の統治領となった。太平洋戦争が始まる頃には島民よりも多い日本人が移住していた。 「戦争が終わったから、もう何もない。日本人が帰った時は悲しかった。

「戦争が終わったから、もう何もない。日本人が帰った時は悲しかった。

ローズ・テロイ・シレスさん(96歳)は、戦争が始まった時、日本人に島から避難するよう言われ島を離れた。戦争が終わり戻ってきた時、自分が生まれ育った美しい島と日本人は姿を消していた。当時の日本人と島民の温かな交流が戦争によって引き裂かれていく様子を、日本語を交えながら語っていく。

人は、人を殺した事がないのが当たり前です。戦場の大地にいる時、兵士たちは 自分を騙すしかないのです。そうでなければ、死は自分に襲いかかるのですから。

約1万人がほぼ全滅した日本軍守備隊の中で、1947年まで抗戦して生還した隊員は34名。壮絶な戦いから奇跡の生還を果たした1人である土田喜代一さん(95歳)は、家族と共にペリリュー島を訪れる。ペリリュー島を指揮した中川州男大佐の墓と向き合う土田さんの目に、当時の戦いの記憶が宿っていく。

「ペリリュー島攻撃に入った1944年9月15日、朝食はステーキと卵でした。」

ブラズウェル・ディーンさん(90歳)は、当時米国第一海兵隊の一等兵だった。ペリリュー島上陸後、日本兵たちは倒しても倒しても幾層にも重なった洞窟から現れてくる様子に茫然としたという。 米国第一海兵師団の少尉だったビル・カンバさん(94歳)は、蛸壺に潜み戦車の前に飛び出すと共に胸に抱いた爆弾と共に散った日本兵を目のあたりにした。 地獄のような暑さ、腐敗臭で息は詰まる沼地、血に染まった海岸…、ディーンさん、ビルさんの証言と資料映像により当時の情景が鮮明に浮かび上がっていく。

「サクラ、サクラ~」それは、玉砕を意味する打電だった。

日本軍守備隊を指揮した中川州男大佐は、それまで日本軍が実施してきた「バンザイ突撃」と言われる総攻撃の戦法を改め、徹底持久戦法の方針を打ち立てた。それによって当時米軍が「3日で終わる」と考えていた戦闘は壮絶なる戦いへと突入していったのだった。
当時を回想する誰もが「残忍な島」だったと言うほどの戦いの中、中川大佐は愛妻への手紙を綴っている。自分に迫る死を悟らせず、妻を思いやる気持ちに溢れた手紙から、過酷な状況下で日本軍の指揮していった中川大佐の武人としての人柄がにじみ出ている。
「玉砕突撃するよりも、最後の一兵になるまで戦い抜かねばならん」と、耐え続けた中川大佐だったが、「サクラ、サクラ~」の打電と共に、遺書も残さずに中川大佐は最後の時を迎えた。
米国軍がペリリュー島に上陸してから、70日目の事だった。
約1万人がほぼ全滅した同守備隊の中で、1947年まで抗戦して生還した隊員34名は、終戦を知らぬまま、約1年8か月もの間洞窟に身を潜め、戦いを続けていたのである。
終戦から70年後の2015年4月9日、美しい姿を取り戻したペリリュー島。そこには慰霊に訪れた天皇・皇后両陛下の姿があった。そして生還者の1人である土田喜代一さんの姿もあった。