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制作ノート

1998年秋

◆細川佳代子、NHKにスペシャルオリンピックスの存在を紹介。
◆NHKエンタープライズから小栗監督に、スペシャルオリンピックスを題材にしたドキュメンタリー番組の企画立案が提案される。
◆小栗監督、細川に初めて会う。
◆小栗監督、ごく普通の知的発達障がい者の少年少女の日常の積み重ねからをスペシャル・オリンピックスを描く企画を提出するが、地味すぎるという判断や冬期五輪でパラリンピックが開催されたことなどで企画は通らなかった。
◆新しい切り口の企画を考えるため、小栗監督、国内の競技会などを訪れ、知的発達障がいを持つ人達の魅力に強く惹かれていく。

1999年6月

◆何とかテレビ番組として企画を通すため、ケネディ家がスペシャルオリンピックスの創設者であるという事実を切り口にした新企画を提案。番組化が決まる。
◆小栗監督、ノースカロライナで開催された第10回スペシャルオリンピックス世界大会を取材。大会には、150カ国、七千名を超えるアスリートが参加し、この年で最大のスポーツイベントとなる。日本は、スペシャルオリンピックス日本が誕生してから、4回目の参加で30数名の選手団を送った。アジアの国としては中国、台湾、韓国、フィリピン、インドなど多数が参加。
◆小栗監督、水泳のアスリートとして大会に参加していた渡辺元くん、高橋淳くんに初めて会う。存在には気づいたものの、二人とも無口で静かな少年だったので、その時は、特に強い印象というわけではなかった。

1999年8月

◆NHK BS、小栗監督による「自立へのオリンピック~ケネディ家もう一つの夢」を放映。

1999年秋

◆スペシャルオリンピックスの認知度をぜひ高めたいと考える細川に、一過性のテレビだけでなく映画が必要と、小栗監督が映画製作を提案。

1999年暮

◆細川より突然「小栗さん、あの映画の企画どうなりました?私は本気です。やりましょう!」と電話。初めての打ち合わせの席で、「いくらあれば映画はできるの?」というあまりに直載な質問に、小栗監督、思わず反射的に「3500万円です」と答えてしまう。即座に「では、私が集めます」の返答。しかし、もちろんこの時点では 映画製作の現場を知る小栗監督にとって、とても現実の企画とは考えにくく、知的発達障がいについて調べたりする程度で具体的な行動は起こさなかった。

2000年初め

◆ところが、「小栗さん、映画は進んでますか?」と細川よりまたも単刀直入な電話。監督はおおいに驚いた。「製作費が集まってない段階ではスタートできませんよ」と説明するが、細川はひるまず「それじゃ、もっと集めればいいんですね」
◆小栗監督も実はひそかにシナリオの構想を練りはじめる。特別な人達でなく、障がい者の普通の日常からスペシャルオリンピックスを描きたいと考え、国内の競技会などに足繁く通い、映画の出演者をおぼろげに探しはじめる。

2000年春

◆「寄付がある程度、集まりました!」と細川より連絡。「早く始めましょう!」
◆しかしまだ、映画づくりの怖さをよく知る小栗監督は、製作資金に手をつけることを躊躇していた。だが、スペシャルオリンピックスの活動がしっかりと地域に根づいているアメリカで、2人の知的障がい者がホームステイをするという骨子は固まりはじめる。
◆細川、「1万円以上寄付してくださった方のすべてのお名前をプロデューサーとして映画のエンドクレジットで紹介します」という資金集めアイディアを決行。

2000年初夏

◆ついに1000万円以上の資金が集まる。
◆この頃から細川とともに小栗監督も全国での講演活動に同行。支援者の熱心な反応に、監督の中で映画製作への確かな手触りが生まれる。
◆able映画製作基金設立。
◆より具体的に出演者探しを開始。すんなり決められるかと思っていたが、ご家族の不安などもあってキャスティングは難航。結局は、数カ月を要することになる。
◆ホストファミリー探しもスタート。スペシャルオリンピックス・インターナショナルにも協力を依頼。小栗監督の目的は「プロとして障がい者ケアに携わっている人でなく、 あくまでも市井の人」であることだった。当初、障がい者へのサポート意識の高いアメリカなら、すぐにホストファミリーが見つかるだろうと考えていたが、障がい者ケアにさほど深い経験がないにもかかわらず、英語もまったく通じない日本の知的発達障がいのある少年2人を預かるという条件の難しさから、適任の候補者はなかなか現れなかった。

2000年10月

◆それまでに出会った4、5百人のキャスト候補の中から、次第に渡辺元くん、高橋淳くんが心に浮かびはじめる。
◆元くんのお母さんに、映画出演を正式に依頼。お母さんの最初の反応は、「無理です。小栗さんは、うちの元のことを知らないから、障がい者を知らないから、そんなこと言うんです。小栗さんの言うことは無謀すぎます。全然、無理です」と厳しいものだった。
しかし、元くんのお母さんは、自分の一存でその話を断るのはいけないと思い直し、元くん本人に尋ねた。「小栗さんって、知ってるわよね」お母さんがそう言った時に、元くんはとても嬉しそうに笑って頷いたそうだ。
そして、「小栗さんが、元をアメリカに連れていって映画を撮りたいって言ってるんだけど、行く?」と聞くと、元くんは答えた。「うん、行きたい」ここから、いよいよ本格的に『able/エイブル』が動きだした。つづいて、淳くんだ。淳くんのご家族、特にご主人は不安が大きく映画出演には否定的だった。「なぜ淳なのか」と問われた。何も話さない、何もしない淳をどうしようというのか、そんな問いだった。
しかし、「淳くんはあるがままでいいんです」と丁寧に説明し、そして半ば強引に説得し、さらに元くんのお母さんの「淳くんと一緒なら」という言葉も後押しとなり、淳くんのアメリカ行きも決定した。
それからは、2人の職場や学校を訪ねたり、皆で野球をしたり、シー・ワールドに行ったり、親交を深めた。

2000年11月

◆アメリカ北部に暮らす家族が立候補。家族の中に障がいをもつ人がいて、ホストファミリーとして安心できる家族だったが、気候の問題で諦める。撮影予定の年明けには、あたり一帯が銀世界となる街だったので、映像として単調になるためだ。

2000年12月

◆アリゾナに住むキャサリン&マーク夫妻から連絡があった。「経験や知識はあまりないけれど、情熱のある」夫婦だった。同時に、ロサンジェルスに住むレイチェル・チェンさんからも、ぜひ2人を預かりたいと連絡がある。

2001年1月

◆小栗監督、渡米し、キャサリン&マーク夫妻、レイチェル・チェンさんに会いに行く。レイチェルさんは自分の息子も自閉症で、その子と同じ治療を淳くんに与えたいと強く切望していた。
しかし、それでは映画にした時に元くんと淳くんのバランスがとれないのではと判断し、経験と知識はさほどないが熱意にあふれた若いキャサリン&マーク夫妻にホスト・ファミリーをお願いすることに決定した。
◆監督らスタッフは、撮影のために、2人の家の近所に家を借りたいと考えていた。ホームステイといっても、撮影スタッフまで2人の家に宿泊はできない。彼らの家は、わずか3部屋だ。かといってホテルから毎日通うのも難しい。何より、知的発達障がい者は体も弱い子が多く、元くん、淳くんがいつ体調を崩すかもしれない。深夜でもすぐに駆け付けられる距離にスタッフが常駐する必要があった。
また、慣れない障がい者と暮らすという状況を考えると、時には元くん、淳くんを撮影スタッフが預かって、夫婦が2人きりの時間を過ごせることも大切だった。そうなると、どうしても撮影スタッフ全員一緒に寝泊まりできる家が必要なのだ。しかし、そう都合良く家が見つかるだろうか。
そして、それは、キャサリン&マーク夫妻の家に、正式なお願いに行った日だった。それでは「See you」 、と家を出て歩き始めると、何と来る時には何もなかった3軒隣の家に「RENT」の看板が!こうした幸運から、映画は生まれるのだ。

2001年2月

◆ついに元くん、淳くんとアメリカへ。撮影がはじまった。同行スタッフは、監督・撮影を手がける小栗と、元くん、淳くん2人のケアを担当するアシスタント・ディレクターの花井・細川、エンド・クレジットの絵を描いた百田、撮影助手の松永、そして現地アソシエイト・プロデューサーの羽根石の計6人という最小編成だ。
アリゾナの気候は、朝には気温5℃だが日中は30℃近くになり、天気にも恵まれていた。最初の1週間は、アメリカでの暮らしに慣れることに専念した。そして、元くんはペリー・リハビリテーションセンターへ、淳くんは地元のギルバート・ハイスクールへ。その後の毎日は映画に描かれた通りである。

2001年初夏

◆ついに撮影終了。日本へ帰国。編集作業に入る。

2001年9月

◆ナレーション録り。当初は、ナレーターや女優で録音しようと考えていたが、キャサリンに読んでもらうことにした。小栗は、そのために再度渡米しようとしたが、キャサリンとマークは自分達がぜひ日本を訪れたいと希望。2人は初来日し、元くん、淳くんと旧交を温めた。

2001年10月

◆ゼロ号完成。

2001年11月

◆上智大学講堂で、完成披露試写会を実施。小栗監督、細川製作総指揮、元くん、淳くんが舞台挨拶。

2002年1月

◆2001年度(第56回)毎日映画コンクール記録文化映画賞を受賞。

2002年3月

◆高円宮・同妃両殿下にご臨席いただき、プレミアム試写会を実施。アメリカからチャド・アーサーくんが一家6人で来日した。キャサリンとマーク夫妻は、当初来日予定だったが、仕事の事情で残念ながら来日できなかった。

2002年4月

◆小栗監督の本「『able/エイブル』製作の日々を描く」(TBSブリタニカ刊)、元くんのお母さんである渡辺ジュンさんの本「able/エイブル~生まれただけで冒険だった」(元就出版社刊)が出版。
◆シアター・イメージフォーラムで公開。